2016/12/26
前回は「町田の壁抜け少女」の紹介だけに終わってしまったので、今回はドッペルゲンガー現象の考察からはじめたい。
例えば「部屋に入るともう一人の自分がいて、近づくと消えてしまった」ような視覚のみに現れた事例では、スイス・チューリッヒ大学のピーター・ブルッガー博士などの研究で、脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域に腫瘍ができた患者が経験する場合が多い。
脳のこの領域は自己の肉体のイメージをつかさどっていると考えられており、腫瘍によってダメージを受けると、自己の肉体を認識する感覚を失い、あたかも自分とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚してしまうそう。
「自分のドッペルゲンガーを見ると死んでしまう」という噂も、脳腫瘍によって死期が近い人物がドッペルゲンガーを見ることが多いために生まれたと推測できる。
また統合失調症などの精神疾患でも幻覚としてドッペルゲンガーを見てしまう。
このように視覚的だけの場合はいわゆる「病気」で説明がつくが、第三者といっしょに見てしまうケースもある。
2014/3/1 不思議.netより
コンビニで自分そっくりの人物を見かけて怖くったスレ主が、兄を呼び出し、いっしょに家まで帰る。ところが帰った家の庭先で、今度は兄がスレ主のドッペルゲンガーを目撃してしまう。
2016/7/12 不思議.netより
スレ主の彼女がアパートに帰り、ベッドでうとうとしていたら、突然玄関の鍵が開けられ複数の男たちが部屋の中へ入ってきた。入ってきた彼らはドアの鍵の開け方や足音などの癖からスレ主とよく似ているように感じた。
しかも金縛りにあったように身体が動かずおびえていると、彼らの一人が「まずい、あいつが戻って来るぞ」とつぶやいた。
直後にスレ主が部屋に入ってきて、それと同時に謎の人物たちの気配は消えてしまった。
最初の事例はスレ主と兄が目撃したケース、2番目の事例はスレ主の彼女が遭遇したケースだが、どちらも脳腫瘍や精神疾患による幻覚だけでは片付けられない。
前回紹介した「町田の壁抜け少女」では、すぐそばにいた友達は、残念ながらスレ主が壁を抜ける瞬間を見ていなかった。
たが、「もう一人の自分」が語る「世界の真実」には興味をそそられる。
果たして「我々は意思のないプログラムの一部にすぎないのか?」
オカルト板やまとめサイトには、「町田の壁抜け少女」ような、われわれの世界の真実、上位の存在をにおわせる事例が報告されている。
ドッペルゲンガーの「病気」以外の可能性を探るためにも、視点を広げて他の事例を探してみた。
2016/11/11(2014/11/5の再掲載) 不思議.netより
スレ主によると川でおぼれて死にかけた際に精神が身体と分離して、「誘導体」と呼ばれるおっさんに世界の真実を教えられたという。
スレ主の話は漠然としていて、壁抜け少女とは対照的にわかりにくいが、主張はよく似ている。
我々の世界には物語の主人公となる「誘導体」と呼ばれる人物がいて、この人物の生まれてから死ぬまでの一生が1つの物語である。
我々の大半は「無誘導体」という意思のない(自分で物事を決めることのできない)存在であり、輪廻のループに閉じ込められ、それぞれの時代の身体にくっつけられて、それぞれの役割(脇役)を演じているにすぎない。
話の要点をまとめると、
●誘導体はこの次元だけに実際する唯一無二の存在で、自分の判断で行動し、肉体と切り離すことのできない魂をもっている。
●無誘導体は多次元にわたってコピーが存在し、誘導体に何かしらの影響を与えるためのプログラムで、1秒先も自分で決めて行動することはできない。
●たとえ死んでもそれはアバターのようなボディだけの死であり、無誘導体の精神は次の次元のボディに輪廻転生する。精神と身体が乖離しており、自分自信を誘導することはできない。だから「無誘導体」。
この世界をロールプレイングゲームに例えるなら、誘導体がプレイヤー、大多数の人間はNPC。プレイヤーはクエストをこなしていき、プレイヤーの「死」によってゲームはエンディングを迎える。
我々NPCは輪廻転生によってプレイヤーのゲームごとにジョブチェンジを繰り返しているにすぎないが、NPCが大多数のためメインの存在と勘違いしているという。
「我思う故に我あり」というデカルトの言葉は、「今自分が見ているものは、実際は存在しないのかもしれない。でも、それを疑う自分という何者かが存在がすることだけは真実」という意味だが、その真意は「疑っている自分という存在さえも架空の存在。だから気楽に生きればいい」とスレ主は言う。
なんだか虚しくなってしまうが、このように「我々は意思のないプログラムの一部」という考え方を本格的に研究している哲学者がいる。
オックスフォード大学のニック・ボストロム教授が発表した「人類が生活しているこの世界は、すべてシミュレーテッド・リアリティである」という考え方で、「シミレーション仮説」と呼ばれている。
次回はこの仮説を考察していきたい。